人生は、何かを実現するための、楽しくも辛くもある修行の旅。でもせっかくなら楽しく生きたい。 

小学生の頃から社会課題に関心を持ち、様々なことにチャレンジしてきた吉村 なる美(よしむら なるみ)さん。今まで挑戦してきたこと、二児の母としての葛藤や、意識している人との関わり方などについて語っていただきました。

保管されていた小学5年生の時のプリント

―なる美さん、早速ですが自己紹介をお願いできますか?

吉村なる美です。10月に赤ちゃんが産まれて、今は2児の母です。

―なる美さんとの出会いは、大学時代でしたね。当時から“少し変わったことに取り組んでいる”というイメージでした。(藤田)

あいちゃんとどこで出会ったか、あんまり覚えてなくて・・・私たち、何がきっかけで話したんだろうね(笑)?大学内か、外で出会ったのか、授業だったか・・・留学から帰った後だよね。

―留学はどちらへ?どんなことをされていたんですか?

大学を1年間休学し、ワーキングホリデーで、カナダのトロントに行きました。8ヶ月のうち、3ヶ月はホームステイをしながら、語学学校に通っていたんです。その後、カフェで働いていた時期もあったけど、バーみたいなところで長く働いていたかな。

ーそうなんですね。その後は?

アフリカに行ってインドネシアに行って、日本に帰りました。それから、カナダで働いて得た40万円を手にしてアフリカを旅しました。

―なぜアフリカに?

高校生の頃に「飢餓をなくしたい」と思い、「ハンガー・フリー・ワールド」というNGO団体内の、「ユース・エンディング・ハンガー」という学生サークルに所属していました。本部は東京で、全国にいくつかあるんだけど、愛知県では愛知教育大学のサークルとして活動していたんです。当時私は高校生だったけれど、参加させてもらって少しだけ大学生のお手伝いをしました。そのNGO団体がウガンダを支援していて、「いつかアフリカに行きたいな」と思うようになったんです。

―高校生のときに「飢餓を無くしたい」というテーマに行き着くのって、普通の生活を過ごしていたらなかなかないと思うんですけど・・・。興味を持ったきっかけは何でしたか?

全然覚えてなくて・・・(笑)なんでだろう。大学生のときに家を整理していたら、「ハイチの会」という名古屋のNGO団体が授業で配布してくれたプリントがとってあったんですよね。確か小学5年生の時なんですけど。地震やハリケーンの支援をしているということを聞いて、ずっと興味があったんでしょうね。それがきっかけなのかは覚えていないですが、“気づいたら興味があった”って感じですね。

アフリカ旅行中、バスの中で仲良くなった子どもたちとマサイ族の方。

受験生の夏に出会ったキレイなCAさん

―南山大学へは、国際協力とかに興味があって進学されたんですか?

実はずっと、愛知教育大学に入るものだと思っていたんです(笑)。実際に合格したんだけれど、南山大学の方が近いし、海外にも行きやすそうだし、って、ガラッと進路を変えたんですよね。

そうなんですね!

高校生の時に「名古屋インターアクトクラブ」という奉仕団体に所属していて、他校の高校生35人くらいと先生と一緒に、オーストラリアのメルボルンに研修に行ったんです。それが自分にとって初めての海外でした。受験生の夏だったけど(笑)!

大学受験の前だったんですね(笑)。

現地でキャシーパシフィックに乗ったとき、綺麗な中国語を喋っているキレイなCAさんがいて、見惚れているうちに「英語と中国語を話せたら、色々な人と会話ができるな」と思ったんです。「南山に行って中国語を学びながら、カナダに留学して英語も学ぼう」と。色々やりたくなっちゃうタイプで・・・(笑)。それで、南山大学への進学を決めました。

―愛教大のサークルはそこで終了したんですか?

遠いからあまり活動できていなかったけど、大学1年生の時にバングラデシュの支部に派遣してもらいました。現地で活動するユースの全国会議みたいなものがあって、そこに参加させてもらい、日本での活動について伝えたり、バングラデシュについてのお話を伺ったりと・・・そんなこともやっていました。すごくいい経験で、飢餓・貧困とは何かと根本的なことを考えさせられました。

―他には何か、サークルなどやっていらっしゃいましたか?

たくさんやっていました、馬鹿みたいに(笑)。多分、数えたら7個くらい所属していた気がする。

そんなに!(笑)

子どもに英会話を教えるサークルとか、留学生と交流するイベントを作るサークルとか・・・YMCAという法人で子ども達の野外活動のボランティアもしました。他にも、 「アツイ愛知の学生集団」という団体でも活動していました。みんなで決めた理念は印象的で、今でも覚えてます。「地球・社会問題に興味・関心を持った若者が、お互いを感化するための場を提供する」というものでした。合宿型のイベントを主催していて、1年生の時は副代表をさせてもらっていました。なんであんなに忙しく色々やりたがったのか、よく覚えてないけど(笑)。

バングラデシュにて、現地のNGO団体で活動していた大学生と一緒に農村を訪問したなる美さん(右端)

東日本大震災を受け、新卒でボランティア団体に就職

―その中でいちばん、「今に活きている」とか、「あれをやってよかった」というものは何ですか?

うーん。全部ですね。

ー全部ですか(笑)。特に思い出深いものなどは?

「アツイ愛知の学生団体」で一番頑張ったイベントには180人来てくれたんです。2泊3日の泊まり型のイベントなのに。ファンキストというアーティストの公演を企画し、南アフリカ人と日本人のハーフのボーカルの方がメッセージ性の強い歌や語りで平和を訴えてくれました。とにかく、“みんなで社会の課題を考える3日間”って感じでしたね。

ーなるほど。

色々なイベントや物事を作り上げていくプロセスを学んだことは今も役立っているし、英会話を教えるサークルも、英語の教員免許を取得して塾講師をしていた時にすごく活きていたと思います。日頃の生活に何が活きているかといえば、大して何も活きていないかもしれないけど(笑)。でも、「色々なものが私に蓄積されているな」と感じますね。

―留学から戻った直後の東日本大震災は、なる美さんにとってのターニングポイントになったのでは?

そうですね。人生がかなり変わりました。

訪問した避難所(なる美さん撮影)
福島県いわき市での泥出し作業(なる美さん:右)

ーどのように変わりましたか?

ずっと海外に関係するボランティアや仕事をしたいと思っていましたが、「今は日本のことをしよう」と思い、東北に行って復興支援のボランティアをしたり、2つの団体を立ち上げて活動したりしていました。大学3年生の時ですね。

ー大きな変化ですね。卒業してからも続けていたんですか?

卒業後は、「愛チカラ」というボランティア団体(2013年当時)に就職したんです。震災後、福島県に住む子ども達が外で十分に遊べないという現実を受け、愛知県や岐阜県内でのキャンプを主催していました。

―就職されたんですね!ボランティア団体って、お給料とかはどうなるんですか?

助成金を自分で申請して収入を得たり、法人化させて「一般社団法人aichikara」(以下「aichikara」)となり、会費収入から給料をもらっていました。ただ、それだけでは十分でない時期もあり、他にも仕事をしていました。塾の先生をしたり、司会の仕事をしたり・・・色々ですね。

―色々な活動をしながらも、aichikaraが比重としては大きかったんでしょうか?

そうですね、とっても大きかった。だけど、愛知県庁の中に設置された「愛知県被災者支援センター」という所で避難された方達を支援する仕事をフルタイムでしていた年もあります。「aichikara」の仕事は2017年頃に辞めて、その翌年に子どもができて、今に至ります。今もメンバーの一員ですけどね!

―お話を聞いていると、色々な人との繋がりがあって、イベントや団体を運営しているんだろうなと感じます。

昔から、なぜか裏方が好きなんですよね。ボランティアや奉仕活動自体が好きなんじゃなくって・・・ボランティアって、常に裏方の役回りをしているじゃないですか。だから、そういうのが好きなんだろなと思います。それでどんどん色々な人と知り合った、って感じですね。

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