名古屋をもっと盛り上げたい!
人と人を繋げるBEAMSのショップマネージャー

アパレルショップBEAMSの店長でありながら、スポーツ、飲食、エンターテイメント等様々な業界とのコラボ企画で地元名古屋を盛り上げている森 正博(もり まさひろ)さん。服、名古屋、スポーツにかける熱い想いと、その掛け合わせで生まれた人との出会いや挑戦のお話を伺いました。

洋服と、名古屋と、応援することが好き

―自己紹介をお願いします。

森正博と申します。昭和50年9月30日生まれの47歳です。名古屋生まれ、名古屋育ち、名古屋大好き人間です。自分のコンセプトが「Born in 名古屋・Live in 名古屋・Die in名古屋」っていう(笑)。

―おぉ〜〜〜!

そういうことを、常に意識して日々を過ごしています。

―そうなんですね。

はい。「BEAMS(ビームス)」という、主に洋服を扱っているお店で働いています。「BEAMSを通して、名古屋が楽しく元気になる」ということを模索しながら、いつも仕事をしています。あと…洋服はもちろん好きなんですけど、応援することもすごく好きです。

―”応援すること”とは?

野球やサッカーを観戦しに行ったり、友達のお店でお手伝いできることがあれば応援したり、自分の部下を応援したりとか。「対峙する人とか接点を持った人が元気になったらいいな」といつも思って生きています。はい、以上です(笑)。

―おぉ〜、締めていただきましたが、まだお話をつづけさせてくださいね!(笑)”名古屋好き”ということがすごく伝わってきました。名古屋の街にも詳しそうですね!

そうですね〜。名古屋にずっと住んでいるので、実際に自分が行ってみて、オススメできる場所はいくつかありますね。そんなに詳しい訳ではありませんが…(笑)。

―その笑顔だと…飲めるお店が多そうですね!(笑)

そうですね(笑)。飲み屋に限らず、名古屋には良い場所がたくさんあるのですが、どうしても若い子たちは東京に目を向けがちですよね。特にアパレル業界はその動きが顕著で、「名古屋から出て、まず東京に行こう!」という流れが続いている気がします。自分がお店のショップマネージャー(店長)になったときに、人材の流出をどうやって止めるかを常に悩んでいたんですが、「地元って素晴らしい場所なんだよ」と後輩達に伝えることで、「名古屋でも何か表現できるのかな」とか、「名古屋でもいい仕事ができるんだ」と思ってもらえるようにしたいですね。それを常に意識しています。

―人材の流出は、アパレル業界でも課題なんですね。

東京という大都市にわざわざ出て行かなくても、「地元の名古屋でも同じようにできるんだ」というところをみんなに見せて、地元の素晴らしさを感じてもらえたら、と思っているところです。ただ、生まれ育った名古屋が好きだということに気づいたのは最近なんですけどね。

ナゴヤ球場で応援するため…ダンボールで寝ていた?!

ーそうなんですね。名古屋を好きになったきっかけはありますか?

もう、父親がめちゃめちゃ中日(ドラゴンズ)ファンで(笑)。

ーなるほど(笑)。

物心ついたときからドラゴンズのキャップをかぶっていました。家のテレビでは常に野球が流れていて、それを熱い気持ちで見ている父親がいて、「自分はこの青いチーム(中日ドラゴンズ)を応援しなきゃいけないんだ」というのを、幼いながらに思っていましたね。それがずっと染み付いています。

ーお父さんの影響なんですね。

父親がきっかけでスポーツを好きになって、サッカーもやるようになり、名古屋グランパスも応援するようになりました。「地元を応援する」というのは、スポーツがきっかけだったと思います。

ー野球もサッカーも、地元チームを応援しているのですね。

そうですね。小さい頃から「あのオレンジのチーム(巨人)には負けちゃダメなんだ」と思っていました(笑)。ただ、野球って、巨人がいるから面白いじゃないですか。巨人がいるから、周りの5球団が「あそこに勝つ!」という構図が出来上がっているんですよね。その中の1球団の青いチームが勝つことで、自分の気持ちが充実して、日々を楽しく過ごせたりしています。地元が好きになった最初のきっかけは野球なんでしょうね。

ー中日ドラゴンズを通して、地元名古屋が好きになっていったんですね。

当時、プロ野球の試合は尾頭橋のナゴヤ球場*でやっていたんです。巨人戦のチケットを取るために、夜中に父親と中日ビルに並んで、段ボールを敷いて寝ながら、朝のチケット販売を待っていました。いつも外野のライトスタンドの席で観ていたのですが、そこの席も早く行かないと良い場所が取れなくて。
*ナゴヤ球場は今は二軍戦や練習場として使われています。

―おぉ〜夜中から並んで買う時代があったんですね!

はい。内野で優雅に観るのではなく、外野の応援団のラッパの横で、メガホンで大声を出して観ていた時の光景が自分の中に根強い記憶としてあります。そこから地元への愛着が非常に高くなったと思います。

ー楽しそうですね。伝わってきます。

当時、野球は一番の人気スポーツで、娯楽でもありました。中でも巨人戦のチケットはなかなか手に入らなかったので、中日ビルやプレイガイドに深夜に並びに行くことがよくありましたね。

―なるほど、”よく”あったんですね(笑)

そうこうしているうちに自分も成長して、名古屋グランパスができて、Jリーグが開幕して、今度はサッカーの応援にのめり込んでいきました。高校生の時にはサッカーワールドカップをテレビで見ながら、「行きたいな…」と思っていました。大学生の時には友だちと旧国立競技場に行ったり、静岡県の清水市や磐田市へ行ったりと、全国のサッカー場に行ってグランパスを応援していました。

―おぉ〜サッカーに熱くなってきたんですね!

試合=壮大なストーリー

98年のフランスで行われたワールドカップでは、初めて日本が出場するということになり、国立競技場へ予選を見に行きました。大学4年生だったんですが、単位はほぼ取っていたので、必要なときだけ学校に行くような生活をしていました。「就職活動は一切しない」と決めて、就職課や親の言葉をのらりくらりかわしながら、昼間はBEAMSで、夜中はミスタードーナツでアルバイトをしていました。卒業後の98年6月、大学4年間で貯めたお金を持って、フランスに行きました。

ーえー!フランスのワールドカップまで行ったんですか!

フランスの、パリより南方にあるトゥールーズという都市の競技場まで行って、日本対アルゼンチン戦を見ました。結果は負けてしまったのですが、とても楽しく過ごすことができました。中田英寿とか、ゴン中山とかの時代ですね。カズが直前で代表から外されてしまった時のワールドカップです。一方で、当時、ニュースや新聞でも取り上げられていましたが、日本の旅行会社が現地のチケット販売の人に騙されて、チケットが用意できず、折角フランスの競技場まで来たのに中に入れずにゲートの横で泣いている日本のサポーターがたくさんいました。それもすごい光景でした。

ーえ…!それは…気の毒ですね…。

本当にそうですね。そんなこともあったんですが、自分でも1試合だけでは飽き足らず、パリへ行って、ダフ屋から5~6万円でドイツ対アメリカ戦のチケットを買って観戦しました。パリのスタジアムは観客が暴れるからか、日本の競技場と違ってすごく物々しい雰囲気で…檻みたいでした。海外の人の血の気の荒さなのか、陸続きの地形や歴史のせいなのか、スポーツも「争い一歩手前」のような感じで、ドリンクは投げているし発炎筒が飛んできたりしました(笑)。

―うおー。荒いですね…!

頻繁にいざこざが起こっていましたね。そこで「日本って本当に平和なんだな」と思いました。それが初めて行った海外だったんですが、島国と陸続きの国民性の違いを、スポーツで勉強できました。そんな海外事情も面白かったですね。

ーそれはすごい体験でしたね。森さん自身はいつサッカーを始めたのですか?

小学校と高校でサッカー、中学校で野球をやっていました。ただ、プレーヤーというよりは、自分を取り巻く環境や雰囲気がすごく好きでやっていました。

ーなるほど。お話を伺ってると、スポーツ自体というよりは、スポーツを取り巻く環境や周りの人間模様の記憶が鮮明にあるようですね。

そうですね。もちろん主役である選手の練習や肉体の鍛錬、チームプレイも大切ですが、その主役たちが成り立つには、グラウンドを整備する人もいて、応援する人もいて、チケットを切る人もいて、誰が欠けてもダメなんですよね。「試合が行われる」ということは、壮大なストーリーだと思うんです。”どのピースが欠けてもダメだな”というところに面白さを感じます。

ー確かに、壮大ですね。

時々、そのとき目で見た風景を“パッ”と鮮明に思い出しますし、ずっとそれを胸に秘めて生きている感じがします。特に幼少期のナゴヤ球場前駅*からナゴヤ球場までの行き帰りを歩く風景は、下町感があって大好きでした。父親に何度も連れていかれたので、その影響がやはり強いですね。
*ナゴヤ球場前駅:現在は山王駅

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