自分らしく、楽しく、面白く
今を生きる人

「面白いことは自由でいい」と語る、山口 光(やまぐち ひかる)さん。障がい福祉施設での仕事、歌などのパフォーマンスやアートプロジェクト、時には着ぐるみを着て街を練り歩く等、様々な活動をされています。「これやったら面白そうだな」、そんな山口さんの純粋な遊び心が大きな力となって周りをも変えていく、興味深いお話を伺いました。

障がい福祉の事務局職員。「パフォーマンスもします」

ー自己紹介をお願いします。

山口光(やまぐちひかる)です。障がい福祉の仕事をしています。福祉施設の事務局の職員で、障がいのある方々のパフォーマンスや企画のサポートをしています。あと、自分自身もパフォーマンスをやっていて、歌ったり、ちょっとした衣装を着て子どもたちと楽しんだり、時には街を歩いたりしています。最近はセラピーも始めました。

ー聞きたい話が盛りだくさんで、どこから掘り下げようか悩ましいですね(笑)。メインで働いている福祉施設について教えてください。パートナーの方とも一緒に働いていますよね?

はい、NPO法人ポパイを立ち上げたのは、障がいある子どもを持つお母さん達のグループで、夫は第1号の職員でした。数年後に理事長職を引き継いで今に至っています。ポパイは今16年目です。私は関わって10年ぐらいです。

―関わることになったきっかけは、旦那さんということでしょうか?

そうです。最初は食事作りやイベントを手伝うくらいの、臨時で関わっていました。うちの子どもが保育園に入る頃に正式にパートの事務職として入ったけど、事務が嫌いで…あんまり面白くないもんだから…(笑)。自分のやりたいことを徐々にやってきたかんじです。

パルコでのポップアップショップ 意外だったお母さんの反応

―事務以外のお仕事も幅広くされてきたんですね。印象に残っているお仕事はありますか?

「アートとお菓子をコラボさせた商品を作りたい」っていうことで意気投合したスタッフがいて、デザイナーさんにも入ってもらいながら一緒に商品を作ったんですね。

―おぉ、アートとお菓子ですか。

すごくいい商品ができたんですが、売るところまで考えてなくて…(笑)。「どこで売るの、これ?」ってなって…。片っ端からデパートとかに電話したら、パルコさんがポップアップショップ*やっていいよって言ってくださって!でも今度は、「ポップアップショップってどうやってやるの?!」って。私たち本当に何も知らなくて、「どうしよう!決まっちゃった!!」というかんじだったの(笑)。
*ポップアップショップ:数日~数週間程度の比較的短い期間限定で設営されるお店

―えー!すごく手探り状態だったのですね…!

そう。知ってる人たちに教えてもらったり、パルコさんのレジ研修を受けたり、その頃は他に並べられるような商品がなかったので、他の法人さんから仕入れさせてもらったり。色んなところに電話して、「ポップアップが決まったんですけど、是非商品を取り扱わせてください」と。もう何にも知らない状態からスタートして、結局4年ぐらいやらせてもらいましたね。

―そこから4年もやったんですね!

やっていた中で面白かったのが、人の反応が変わっていくこと。それまでは、お菓子を作ったり、アートをやったりというのが、何をしているのかよく分からない雰囲気だったんだよね。この頃は、福祉施設でアートとか、商品を外で売るということは、名古屋ではまだあまりなかったから。でもやってみたことで、親御さんたちに「なるほどそういうことね!」と思ってもらえたり、他の施設の方が視察に来たりと、受け入れてもらえた気がするね。

―先駆的だったんですね。

そうそう。「どうやったら、こんな所でやれるようになったんですか?」と聞かれたりしました。一緒にやったスタッフも、「うちの事務局やり手なんで!」みたいな話をしていたけど、実は「ただ電話しただけです」っていう…(笑)。

―確かに、パルコでポップアップショップをするなんて、ハードルが高そうに感じます。

私の人生って、今までそういうかんじなんだよね。同じようなことをやっている方には「仕掛け人は山口さんなんですね」と言われたこともあるけど、そういう言葉は本当にくすぐったいし、嫌でたまんないの。そもそも、仕掛けてないからね。全然そんなつもりもないんです。

―仕掛けるという感覚ではなく、向き合ったという感じでしょうか。ご自身が思っていたより、世間の反応が大きかったんですね。

反応は大きかったね。ご利用者(障がいのあるメンバー)の親御さんがお子さんのイラストが製品になって販売されていることを、すごく喜んでくださって、ポップアップショップにもお友達を連れて来てくれるようになったりしました。そういう影響は全然想像していなくて、「人ってこういう風に変わるんだな」と気付いた時はものすごく嬉しかったですね。

コロナ禍「ブタの着ぐるみで歩いてみた」

―先ほど「仕掛けたわけじゃない」とおっしゃっていましたが、どんな気持ちでやっていたのでしょうか?

ポップアップショップの場合は、お菓子を作って、「どこで売る?」というところから始まっているだけで、きっかけは仲間のスタッフだったから、自分から仕掛けようと思ってやってなかったんだよね。自分の中で何かしらの違和感があって、たまたま出会いが重なって始まることが多くて。

―「違和感」とは?

違和感というか、問題意識っていうと言い過ぎなんだけど、そんなかんじかな。例えば2年前コロナが始まって、学校は休校になりましたよね。それはまあ、仕方ないとして。その時に「何かつまんないな~」と思ったから、ブタの着ぐるみを着て歩いてみたんだよね。

―?…ブタ、ですか??

話が飛んじゃいましたね(笑)。社会実験みたいな?別に、社会実験しようと思って統計を取っているわけではないんだけど。

―すみません、経緯を教えてください…(笑)。

私、お酒が好きなんですけど、飲みに行くのもダメとか、お店も何時までとか、人と会っちゃダメとか、「仕方ないんですけど、なんだかな~」と思って、何かしたくなっちゃったんだよね。最初は、ツノを付けて歩いたり。

―ツノ…あの…もっと分からなくなってきました…

あと、真知子巻きってわかりますか?昔の映画で、大女優さんがスカーフ巻いて、サングラスかけてお忍びスタイルで外を歩く感じ。何か面白くしたくなっちゃって、コロナ禍で子どもの登校日があると、真知子巻きで付き添ってみたり。

―お母さんが真知子巻きで隣にいるってことですよね。光さんのお子さん、大変だなぁ…(笑)

そういうことをやってたけど、だんだん物足りなくなってブタの着ぐるみを入手して、外を歩いてみたのね。友達のカフェに「ブタの格好で行ってみようかな〜」と思って、夫には友達に先に電話をしとけって言われたから電話をして承諾を得てね、ブタの格好で現れたら、みんな喜んでくれて。お客さんとかスタッフがみんな「着たい着たい!」て、笑ってくれたの。そういうの楽しいなと思って。

―なるほど。カフェに突然ブタが来たら盛り上がりそうですね(笑)。

その動画をあげたら「うちの店にも来て欲しい」と言われて、お友達の酒屋とか、こだわり食材のお店やマルシェとかへブタの格好で行きましたね。自分で動画の編集をしてそのお店の応援するつもりでネットに上げていきました。趣味が高じてそうなっちゃったかんじなので、仕掛けようとも狙ってもなくて「何かつまんないな、この暮らし」と思って「結果そうなっちゃった」という一例です。

―結果そうなっちゃったんですね。それが、他人からは「何かまた仕掛けてるな」って思われるわけですね。

そうそう。何か社会にメッセージを発信してるって思われたりね。「面白いことを勝手にやるのは自由じゃないのかな」っていう思いはもちろんあるけど、それで何かすごいことを発信しようとは全然思ってなくて。

―そういう純粋な遊び心が逆にいいのかもしれないですね。

ブタの話は実はもっと広がっていて…友達のピアニストがその活動に感動してくれて、曲を作ってくれたのね。「歌詞を送って」というから、ちらっと送ったら「こんな歌詞じゃ足りない」って言われて、もっと付け加えたの。あと、ダンスの先生が振りまでつけてくれて、「この活動はもうすごいわよ!」って言ってくれました(笑)。

―ほとんどアートプロジェクト*ですね。
*作品そのものより、制作の過程を重視したり、アートを媒介に地域を活性化させようとする取り組み。

結果、なんかそういうことになっちゃたよね(笑)。

―意図せずですね。光さんにはそういう力があるんですね。

「何でブタを買ったのか?」とよく聞かれるんだけど…。強いて言えば「“お忍びスタイル”を極めたかった」ということなんです(笑)。

―究極の遊び心ですね!

暇だったんです(笑)。

―その、光さんの心を理解できないからみんな聞くんですよね、きっと(笑)。

でも、娘の学校にはさすがに、ブタの格好では行かせてもらえなかったけど…。

―え。学校にブタで行こうとしたんですか?

休校中、たまに宿題のプリントをもらったり渡したりする日があってね。みんなも鬱々としてるかもしれないし、カフェでも喜ばれるわけだから、学校に行ったらどんな反応なのかなと思って行きたかったんだけどね。これで歩いたら「みんなどんな反応なんだろう?」「先生たち怒るのかな?」とか試してみたかったんだけど、娘に「絶対にダメだ」って言われました(笑)。

―娘さんからNG出るちゃったんですね!(笑)

そうです。残念ながら。

―たしかに残念…。ちょっと行ってみてほしかったです(笑)。

「私って、変わってるらしい」そんなに気にしなかった

―光さんの好奇心と行動力のすごさが分かってきました。昔からそうだったんですか?

10歳ぐらいまでは、まあまあおとなしかったみたい。実家の家族からすると“言っても聞かない人”みたいなイメージみたいですね。「あの人はもうしょうがないよ」って母にも思われています。

―そうなんですね。それは、自由に好奇心を発揮されていたということなのでしょうか。

でも、真面目だったからね!ただ、色々と思いつくことはやっていたかな。私、小学校2校、中学校1校だけしかない小さい村の生まれ育ちでね。

愛西市のご実家。光さんとお子さん。

―どのあたりですか?

愛西市ですね。旧八開村です。だから、みんな知り合いみたいなものでした。生徒会とかもやってたけど、大人数の中から選ばれるんじゃなくて、皆なんとなくどんな人なのかを知っている中で選ばれて、やりたいようにやっていました。生徒会では、それまでやっていなかった募金活動を始めて、車を止めてまで「すみません!!!」ってお願いしていましたね。

―車を止めてまでですか。若さってすごいですね!

そうですね。道路には出なかったけど「なんとしても!」という気持ちで募金をお願いしていました。鬱陶しいなと思われていただろうね(笑)。津島市の高校に出て、初めて色んな人に会って、大人数の中で過ごすようになって、「変わってる」とよく言われていました。何でそう言われるのか分からなかったね。大学に行ったらもっと言われるようになって、「何でいつもそんなにギラギラしてるわけ?」とか。でも私自身は「私って、どうも変わってるらしい」ということしか分からないから、私は逆に、「みんなは何でそんなにやりたいことがあんまりないのか分からない」という感覚でした。

―「変わってる」という認識は、自分では全然なかったんですか?

全くなかったです。でも、大学生になった時に「あ、本当にそうなんだ」と思ったかな。

―みんながどういう生活をしているのか、大学生の時に大体分かってきたということでしょうか。

そうですね。でも語学系だったからか、変わった人も結構いたよ。色んな活動をしている人がいて、ランティアとか国際協力とかやってる友達もいたし、部活バリバリやっている友達もいたし。色んな人がいたから、変わってると気づいても、そんなに気にしていないかんじでした。

ドイツ語から逃げて山へ

―大学は語学系ということですが、英語ですか?

あんまり聞いてほしくないんだけどね…(笑)。ドイツ語学とドイツ文学ですね。行きたかったところに落ちちゃって、「まあしゃーないわ」って行ったら、最悪だった。だから余計にやりたいことをやってしまっていたのかも。部活では山に登っていました。

―山登りですか。遊びのですか?高いところを本気で攻める方の山登りですか?

本気の方です。ワンダーフォーゲル部だったので、よく2週間ぐらい山の中を縦走してました。20キロ以上の荷物を背負って、3000メートル級の山から山へ移って、テントでずっと生活して、お風呂も入らないで降りてくるっていうのがメインの合宿だったね。それに向けてトレーニングして、春には鈴鹿の山に登り、徐々に険しい山へ行って、最後は北アルプスに行っていました。

―北アルプスって、登山上級者のイメージがあります。

コースが色々あって、最初は槍ヶ岳を目指してね。槍ヶ岳に行くコースも色々あるんだけど、行ったことがあるコースの方が安全なので、前年に行ったコースを3年生がリーダーになってみんなで行くの。当時は、スマホがないから、自分たちで天気図を描いたりとか、緊急事態が起きた時のチアノーゼ*がどうとか勉強したり。もう全然覚えてないけど、ロープワークをやったりもしましたね。
*チアノーゼ:酸素不足によって皮膚が青紫色に変化すること。

ワンダーフォーゲル部での活動中

―ストイックな部活ですね。なかなかないですよね。

あまりないと思います。お金もかかるから、バイト代を稼いだらそれにつぎ込むっていう感じで。

―それは勉強の方に時間を割けなくなりそうな…どうでしたか?

いや!もうね、学科がめちゃくちゃ厳しかったから、必死にちゃんと授業を受けていました!後ろの席に座っただけで、ドイツ人の先生が「あなた一番後ろの席3回目だね。今日はもういいよ、出なくて。」って。

―えー!厳しすぎる!

例えば、就職活動中の4年生の先輩が、授業に5分遅れただけで、先生は「来なくていい」って言って、本当に単位を落としちゃうかんじ。留年してても就職が決まってても関係なく、50人のうちの10人くらい毎年落ちてたね。

―こわい…!どこの大学ですか?

南山大学です。

―私も南山出身です!そんなに厳しい時代があったんですね…!(なる美、藤田)

え!厳しくなかった?!

―全然!私はほぼ毎回の授業に遅れてました…(笑)。(なる美)

うそー!一番前に座って前のめりで授業を受けないと、良い成績なんか取れないし、それどころか欠席にされちゃうし。優しい先生もいたけど、メインの授業が本当に厳しい先生だったから、「ドイツと日本はこんなにも違うんだ」という思いだけで、勉強が楽しいとかよりも“必死”だった。

―そんなに厳しいと、必死になりますね…。

そう、全然面白くなかったし、ドイツ語も全然好きになれなかったですね。本当は英語の学科に行きたかったんだけど、落ちちゃったから、「まあいいかな、語学だったら」とか思ってたら…もう、えらいことに…だから山に逃げてた(笑)。

―逃げる先がレベル高い(笑)。

教育ってなんだろう。シュタイナー教育へ。

何かね、そういうこともあって「教育って何だろう」と思ったので、大学に入ってから教育に関心を持ち始めました。

―ドイツ人の先生の影響で、疑問が生まれたのでしょうか?

それだけではないんだけど、教育に関して前々から違和感を感じていたのに、そのままにしていたんだよね。大学生の時に、「やっぱり行く先は教育だな」と改めて思ったのね。3年生の時には“シュタイナー教育”*に興味を持って、南山大学のそばにあるシュタイナー系の放課後の家でボランティアをしました。そして、そのまま就職しちゃいました。
*シュタイナー教育:ルドルフ・シュタイナーが提唱した「教育は一つの芸術である」という「教育芸術」の教育法の呼称の一つ。日本では、子どもの個性を尊重する教育法として紹介されることが多い。

―そうだったんですね。では、就職活動せずに就職したんですね!

就職活動は何もしなかった。“一般的な教育”にはあまり関心が持てなくて、何か、そうじゃないアプローチがいいと思ってた時に、たまたまシュタイナー教育という本を手に取ったのが最初でした。「ドイツっぽい名前だな」「何だこれは」って。大学の最寄駅だったいりなかの三洋堂のオカルトコーナーにおいてありました。

―え、オカルトですか!

今の本屋では教育コーナーに置いてあると思うけど、当時の三洋堂にはオカルトっていうコーナーに三冊くらいおいてあった。

―何かの宗教だと思われていたんですかね。

多分当時はね。だから同級生に心配された時期もあったけど、今では浸透して、日進に学校もありますよね。大学の後半から25歳くらいまではそういうことをやってました。

―そうなんですね。私もボランティアから任意団体(当時)にそのまま就職しました。周りの友達は就職活動でしたが…。

私は、就職活動をするのに、やりたい仕事を目指して向かうのは分かるんだけど、「その時期が来たから、とりあえず」ということは全然飲み込めなくて、よくわからなかったんだよね。進路に関する違和感を最初に感じたのが高校1年生の時で、「医者になりたい」とか、「こういう研究がしたい」という気持ちがある人は別だけど、その時は特に「何がやりたい」という話も全然なくて、先生から「このレベルならここでしょ」ってかんじで、学力で振り分けられるのにすごく違和感がありました。

―確かに。これまでそれが普通だと思って過ごしていますが、「違和感がある」と言われれば、その歳で将来のことが明確な人は少ないし、みんな一斉に進路を決めるのは一人ひとりが中心ではない気がしますね。

「次、高校の歳だから、普通科なのか、商業科なのか?専門学校?」とかね。例えば、15歳の子が調理師の学校に行くって言う時に、「この人は本当に調理師になりたいのかな?」って思う。中には、「家が漁師だから漁師になるんだ」とか、藤井聡太くんみたいに自分の道を決められる人もいるのは分かってるんだけどね。でも、私から見た同級生はそういう風に見えなくて。「何で今、もう道が決まってる感じになるのかな」と、ずっと違和感で。

―決めなきゃいけないという雰囲気がありますよね。

だから信頼できる先生に「なぜ人ってこういう風なんでしょうか」と手紙を書いてみたりもしました。

―先生に手紙を書いたんですね!

“何とか高校の誰々”とカテゴライズされるのがめちゃくちゃ嫌でね。そう思ってたのに、大学行ったらもっと厳しくて、やりたくないのにやんなきゃいけなくなっちゃった。「私は馬鹿だったな」ってすごく思っていました。「やっぱり教育は根本から変わらないと」、「学力で測るのがおかしいんじゃないか」と思って、教育系に進むことを選んだんだけど、現実問題、教員免許を取ってなかったので困っちゃって…紆余曲折あり今に至っているんですけど…。

―紆余曲折…色々あったんですね。

はい。結婚もありましたし。大学を卒業した次の年くらいに夫と出会っていて、卒業した2年後には結婚しちゃってるんです。

―そしたら、わりと早い結婚だったんですね。

価値観が似ていて、意気投合して。教育とか福祉とか、今日みなさんに出しているフェアトレードのチョコもそうだけど、そういうことにお互いすごく関心が強くて「いた!そういう人!」みたいな感じでした。それまであんまり会ったことがない人でした。

―そのくらいの年齢になると、ご自身もちょっと変わっているってことが分かってきてたんですね。

そうそう(笑)。やっぱり夫も浮いてて、ずっと変わり者扱いをされていたみたいです。「好きにやってるとこうなっちゃうよね」っていうところ、似ていましたね。夫はブタを着たりしませんけどね(笑)。

―(笑)。お話を聞いていて、私も、今だからちょっと変わってたなあと思うことがあり、光さんの考えていることと似ている部分も感じました。小さい頃から将来の夢を聞かれるのがすごく嫌で、「なんで決めなきゃいけないの?」と思いながら、幼稚園の誕生日会で「なる美ちゃんは将来、何になりたいの?」と先生に聞かれて「ただのしゅふ」って答えた記憶があります(笑)。

おもしろいね、それ。そうだよね、なぜ急ぐのかって思う。変わるかもしれないし、夢なんてずーっとなくてもいいと思う。流れに乗ってたら、「こんな感じになった」ってこともあるかもしれないから、人によって違うんじゃないのかなって思ってる。

―いいですね、その考え方。流れも大事ですよね。

でも基本的にはどうしても学力で測られるし、娘の学校の校則は変だしで、学校にもつい口出ししちゃうから、娘には「卒業式もできれば来ないでほしい」とか、「髪を黒に染めて来い」とか、「着物はやめて」とか言われています。やめないんだけどね(笑)。

―大学卒業後に就職されたシュタイナー教育系の施設は、どんなことをされていたんですか?

放課後の施設だったから、学校でやるような授業とかではなくて、いわゆる学童保育でした。シュタイナーの思想や方針に則って、自然のものでおもちゃや食事を手作りしたり、広い公園に遊びに行ったり。そういうことを先輩に教わりながらやっていましたね。

―学童保育の先生ですか?

職業でいうと指導員ですね。でも認可施設じゃなくて、ちょっと特殊なところだったんだよね。そこで4年働いてから、一般の学童保育に転職しました。昔から「歌を歌いたいな」って思っていたんだけど、学生時代のワンダーフォーゲル部は兼部がだめだったので、軽音部に入るとかのチャンスがなくて。

―ワンダーフォーゲル部、やっぱり厳しいんですね…!(笑)

そうですね(笑)。でも、「やっぱり歌がやりたいな」と思って、仕事をしながらライブ活動を始めました。長女を出産する時に学童の仕事は辞めて、音楽活動はできる範囲で続けていました。“子どもを育てながら仕事する”っていうのも初めての経験だから、預けるのに申請の仕方もわからないし、最初はカフェで短時間のパートをしていましたね。

―子育てしながらだと大変ですよね、まさに自分が今そうですが…(なる美)。

4つ違いで2人目が生まれたんだよね。その頃は何かやりたいけどやれない。でも、子育てもやりたい…「自分はサボってんじゃないか」とか思ったりね。

―分かります〜私は、「社会に貢献できてない」という感覚になります。

もう焦りっていうか、社会から置いていかれるとか、それ以前に、体が全然動かなくて。今思うと、それが母親の体なんだろうけどね。おっぱいをあげてたり、あげてないとしても、小さい赤ちゃんを育ててると、どうしてもそこまで意識が向かないというか、余力がない。

―はい、余力ないですよね…。

だから、頭の中にやりたいことのイメージはあっても、体がついていかなくて、「いつになったら、私は動き出すのかな」っていう焦りがあった。諦めなさいとか我慢しなさいとかゆったり過ごせばいいんだよとかじゃなくて、“そういうもん”でしかなくて、それに従うのが一番で、無駄にあがくと余計疲れるっていうのが今になってわかります。あの時は経験したことがないので、動かない自分がもどかしくて、「何やってんだ」ってかんじでした。

“それに従う”ということ、なかなか難しいですよね…自然と変化があったんですね?

そうそう。自然と動けるようになっていく。保育園に預けたりとかしながらね。

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