防災の理想と現実、気象キャスターとしての葛藤
―NHK松山に転職して、ようやく中学の頃の興味がお仕事に繋がったんですね。

人生って繋がるんだなって思いました。
―実際異業種に転職されてみていかがでしたか?
全く経験がなかったので、最初は当然緊張もするし、慣れるまで大変でした。大体他の皆さんはキャスターをやっていらしたか、気象会社で働いていた方だったので。
―NHKって、局の中でも入社のハードルがすごく高いのでは?
最初は事務所に応募したんです。事務所主催の講座を受けて、そこから紹介してもらいました。松山は四国の拠点局でもありましたし、名古屋から飛行機も直行便で出ているので、すぐ帰ってこられると思って。
―帰省のことも考えるところが、なんだか面白い(笑)。
(笑)。気象キャスターの先輩に、「地方に一人で行くと病む人もいるから、働く場所はちゃんと考えた方がいい」ってアドバイスをもらったことがあって。決断する上で、名古屋から直行便があるのは大きかったです。
―その条件では、松山はバッチリだったんですね。
そうですね。もちろんオーディションは全然上手くできなかったのですが、運良くとっていただけて。

―運良く?(笑)
そうですね(笑)。やっぱり災害報道といえばNHKですし、元々志望もしていたので嬉しかったです。
―合格の理由はなんだと思いますか?
受かった理由を考えると、“気象キャスターになりたい理由”が明確だったから、それが伝わったのかなと思っています。「気象庁の情報をそのまま流すのではなくて、自分なりの言葉に変えて行動につなげてもらいたい」と思っていました。
―災害で困ってる人たちを目の当たりにしてきたからこそ、もっと天気予報を人々に活用してほしいという、課題解決への思いが通じたんですね。
これまでも気象庁は情報は出しているんですが、それが上手く視聴者の方たちに届いていないのかなと感じることがあったので、少しでもそういった現状を改善したいと思っていました。
―苦労されたところはありますか?
発声練習も初めてでしたし、天気予報そのものも難しいと感じました。
―職場関係やプロセスとかではなく?
自分の問題でしたね。周りの方にサポートしていただきながら、自分でも勉強しながら、徐々に慣れていきました。
―原稿はご自身で書くんですか?
そうです。でも、入って2年目の時に西日本豪雨があって、愛媛でも30人以上の方が亡くなって、このまま私が続けていていいのかと毎日葛藤がありました。
―理想と現実のギャップに心が折れてしまったんですね。
「自分の言葉を使って命を助けたい」と思っていたけれど、「気象キャスター」という職業が果たせる役割ってなんなんだろうと思い悩む日々でした。
それでも、被災した方から励ましのメッセージをいただいて、前を向くことができました。
―松山に2年いて、愛知県に戻られたきっかけは?
結婚して地元に帰ることになって、タイミングよくCBC(株式会社CBCテレビ)で募集が出ていたんです。お天気キャスターとしてはまだ2年しか経っていなくて、全然一人前にもなっていなかったのですが、これまた運良く採用していただきました。
―運良く…(笑)。愛媛でのご経験が評価されたのですね。
災害対策はニュースで伝えるだけではなく、やっぱり教育からどんどん変えていかないと人の認識も変わらないと思って。その頃から執筆業にも力を入れていきました。
―メディアでの呼びかけもしつつ、活動の幅も広げていったんですね。
メディアの呼びかけも大事ですし、もちろん続けていかないといけないです。「台風が来るなら電車は止めないと駄目だよね」という最近の風潮を見ると、世の中の意識は少しずつ変わってきているのかなとは思います。
―確かに、最近は会社や学校でも、以前に比べて早退やお休みを促す動きも増えた気がしますね。
でも、やっぱり子供の時から最低限の知識はつけておかないと、いざという時に行動に移せないので、教育も大事だと思い執筆は続けています。
―本当にそうですね。災害に対する危機感を高める社会の動きは良いことだけど、何故危機感を持つ必要があるのかを、しっかり伝えていくことが大事ですよね。CBCに転職されてからはいかがでしたか?
取材に出たり、リサーチをしたり、仕事の幅がかなり広がりました。天気予報だけでも大変ですが、そこに記者やディレクターの役割も加わったようなイメージです。
―取材やリサーチなんかは、事前準備も大変そうです。
CBCテレビでは一人が複数の役割を担うことが多かったですね。中継や取材を多くこなすなかで、もっと天気や地元のことが好きになりました。
―同じテレビ局でも、担当業務に幅や違いがあるんですね。

日本人初!強者たちと肩を並べた英語でのインタビュー
―絢子さんの気象予報士としての個性はなんでしょうか?
やっぱり防災の部分ですね。気象庁が2017年頃から、気象予報士の中でも防災の知識をより専門的に身に付けてる人を増やしたいという目的で、「気象防災アドバイザー」の育成を始めたんですが、その一期生に応募したんです。
―記念すべき、第一期生なんですね!
真面目すぎるんだと思います。踊ったりしながら、面白く天気予報を伝えるとかはできないし(笑)。その知識を活かして、今アメリカにいるから、世界の天気も分かりやすくかみ砕けたらいいなと思っていますが、なかなか難しいです。
―世界の天気、より複雑で難しそうです…!
難しいですね。東海地方一つとっても難しいので。
―「レスキューストックヤード」という防災のNPOの代表の方も、近年の災害の顕著な増え方に驚いていらっしゃいましたが、絢子さんの立場からみていかがですか?
皆さん体感されているように猛暑日も大雨も増えていて、将来的には台風もより強まるという予測がでていますね。やっぱり「今まで大丈夫だったから」というのがなかなか通用しなくなっています。
―10年に一度の大雨と言われている、記録的短時間大雨情報も頻繁に出ていますよね。頻繁に出すぎていて、ニュースで言われても危機感が薄れている人も多いと思います。
確かに、気象庁も情報が分かりやすくなるよう整理する方針です。でも、記録的短時間大雨情報は“その地域で10年に一度”だから、全国のどこかで1年に一回起こっても理論的にはおかしくはないんです。でも、言葉だけに注目したら「またか」っていう印象になるかもしれないですね。
―そうなんですね!“どこかで10年に一度”なら、頻繁にあってもおかしくないですね。異常気象で予想が難しくなってきていたりも?
近年見聞きすることが増えた「線状降水帯」は予測が難しい現象の一つですね。規模が小さい上に、発生・発達するメカニズムもわかっていない点が多く、日々研究が進められています。
―周りでは「天気予報全然当たらないよね、ここ数年。」っていう会話が聞こえてくることもあります。天気予報が当たらないことに対するクレーム等はあるんですか?
それはないですね。伝え方に対するご意見は局にはあるのかもしれないですが…。
―あくまでも予報ですしね!気象予報士としてこれからもっと取り組んでいきたいことはありますか?
教育分野に力を入れたいと思っています。アメリカに住んでみて驚いたのが、科学がすごく身近にあることなんです。科学も、恐竜、宇宙、虫、自然などと幅広いんですけど、どれもすごく身近で。赤ちゃん向けの雨の仕組みの絵本もあって、「さすがだな」と感じました。
―子どもの教育には素晴らしい環境ですね。
私、実はこの前アメリカの気象学会のインタビューを受けたんです。

―え、すごい!英語でインタビューですか!
インタビューにあたって、過去のポッドキャストでどんな人がいて、どんな話をしてるのか聞いてみたら、とんでもない強者ばかりで。
―強者ですか?
ハーバード大学に行ったけど、専門の学部がなかったから自分で作って卒業しました、みたいな方とか。
―そ…それは強い!(笑)
「気象とどこで出会って、これまでどういうキャリアパスを歩んできましたか?」という類いの質問があるのですが、「2歳の時から科学は好きでした」とか、「どこかの気象のコンテストで優勝しました」とか、すごい方々が当たり前のようにたくさんいて、正直ちょっと気後れしてしまいました…(笑)。
―日本人でそういう人、会ったことないです。
アメリカは科学が幼いころから身近なもので、私ももっと子どもたちに科学や天気の面白さを伝えられるようなことをしていきたいなと思うようになりました。
―日本もそういう環境だと、勉強をもっと純粋に楽しめる子どもたちが増えそうですよね。そのインタビューは先方からオファーがあったんですか?
私がメールしました。
―おぉ、さすがの行動力!日本人で初めてなんですよね?
外国人で初めてだったみたいです。
―本当に凄いです…!
―なぜ応募しようと思ったのですか?
アメリカで、英語で何かしてみたいと思っていましたし、日本人の話も現地の方にとっては面白いかなと。英語も小さい時から好きだったので。
―不思議と、それも今に繋がっていますね。
そうなんです。キャスター時代にキャリアコンサルタントの方と話す機会があって、その時に言われたことがとても印象的で。「太田さんの人生って、風みたいですね」って。「一つ一つが目標に向かって進んでいって、それを達成しているように見えるけど、そこにあまり強い意志を感じないんですよね」と言われて。
―風ですか。なるほど。
でも確かに気象キャスターになる時も、頭で考えてしまうと経験もないので絶対無理なんですけど、決めるのは私じゃなくてテレビ局の方々だから、「そこに委ねればいいかな」って思ったんです。だから、「絶対にやる!」とか「受かるまで受けるぞ!」みたいな気持ちはあまりありませんでした。
―そこ、急に緩くていいですよね。行動するまでは凄く意思を感じるけど。
「他にやりたいことが色々あったので、受からなくても別にいいかな。」という感じでした。
―そういう考え方ができると幸せですね!
初めての海外移住、ロサンゼルスでの仕事とボランティア
―ご主人の転勤をきっかけにテレビ局を退職されたときはどんな思いでしたか?
「どうしようかな」と悩んだ時期もありました。次を探すのが大変な仕事ですし、年齢的なこともあって辞めるのはもったいないかなとも思いました。でも、やっぱり家族は一緒にいるのが自然ですし、10~19時勤務のなか、現実的にワンオペでは難しいので。
―なるほど。「続けられたらいいな」という気持ちもありつつ、バランスを考えた上での結論だったんですね。
そしてアメリカに行かれた訳ですが、海外に住むのは初めてでしたか?

初めてです。
―子連れですし、文化の違いはどうでしたか…?
アメリカは多人種の国なので、“普通”がないんです。それがすごく良いなと思います。日本だと、お行儀とか子どもの躾とかで「こうしなきゃいけない」というものがたくさんあるように感じますが、そういうのが少ないです。土地的にも広いですし、混むこともあまりないので子育てが楽に感じます。保育料ははるかにアメリカの方が高いですが(笑)。
―今インスタグラムでもアメリカの生活を発信されていますよね。綺麗にわかりやすくまとめられていて、ロサンゼルスに行かれる方に役立ちそうな素敵な投稿をたくさん拝見しました。
生活情報ですね。できれば天気や防災に関する投稿を増やしたいとは思っているのですが、天気より生活情報の方が好評で、バランスをみながら投稿しています。
―そうなんですね。防災情報なども?
防災は、天気とはまた別の分野で難しいです。やっぱり備えることが前提なので活用イメージが上手く伝わらないと、難しいなと感じています。
―災害の直後は意識も高くなりますけど、平時に意識し続けることはなかなかできないですよね。

―慣れない土地で苦労もされたと思うんですけど、気持ちが落ち込んでしまうことはなかったんですか?
最初の一か月は特に大変で、娘に当たってしまうことも正直多かったです。
―長い1ヶ月でしたね。
そうですね(笑)。
アメリカでは、ナニー(Nanny)(家庭訪問型の保育サービス)を利用されている方も多いと聞きますが、実際はどうなんでしょうか?
利用されている方もいますが、アメリカでは物価が高いので、私は利用することはなかったですね。
―最近は特に物価の上昇を感じますよね。住むとなると本当に高くつきそうです…!
そうなんです。日本円に換算すると生活できないです(泣)。今は生活も落ち着いてきて日々の生活を楽しめています。語学学校に行ったり、ボランティアをやったりしています。
―学校やボランティアですか!どのようなものですか?
なぜか私が、ボランティアで現地の小学生に英語を教えたりしています。
―えっ!それは凄いですね!
日本では考えられないですが、アメリカでは読み書きが大幅に遅れてる子が一定数いて、そういう子に教えています。
―教えられるほどの英語力があるってことですね!
でも、現地のママ友さんたちとするネイティブの会話が結構難しくて…。
―ネイティブのママ達の会話、すごそう…日本人は少ないですか?
そうですね。日本人のママさんは保育園にはいないです。
―それでご自身も語学学校に行って、英語を学び続けていらっしゃるんですね。
はい。語学学校では、英語を学ぶというよりはお友達を作りに行く目的の方が大きいかもしれません。
―そうなんですね。サラッとお話されていますが、生活が落ち着くまでは大変でしたよね。きっとめちゃくちゃ努力されていらっしゃると思います。
でも、誰にも褒めてもらえないです(笑)。
―ママってそうですよね~(泣)。本当に頑張っていらっしゃいます!!一人時間はほかに何をされているんですか?
大体気象に関するお仕事をしていますね。気象庁の気象研究所の先生に師事して、本の執筆をお手伝いさせてもらったりしています。
―共著で、最近本も出版されていますよね!
そうですね。校了前だと結構大変です。あとは、普通にカフェ巡りもしますね。
―カフェ、素敵だけど物価高で高そう…!
大体日本の2倍はします。ちょっとコーヒー飲んでも1,000円超えちゃいますね。


