ありのままに生きる舞い祈る
愛のアーティスト
「私ってこんな人って、絶対決めつけない方が良い!」と語る、浅見友美(あさみ ともみ)さん。父親からの虐待という壮絶な幼少期、引きこもり生活を経て、自分を傷つけてばかりいた人生でしたが、自分に素直に生きる訓練をしたことで、“気付いたらなりたい自分になれていた”ことに気付きます。祈り、歌い、三線を奏でながら、“自分の気持ちに正直に生きることの大切さ”を伝えて続けています。今では大好きな父親への思い、自分自身が変わるきっかけとなった出来事、神秘的な体験を経て舞うようになった「アマノマイ」等について語っていただきました。
ガラス作家の夢「覚王山アパート」
―自己紹介をお願いします。
浅見友美(あさみともみ)と申します。大阪生まれで、大阪に40年間住んで、名古屋に来て13~4年*ぐらいになります。*取材日:2024年9月18日
―大阪ご出身なんですね~!
関西弁は抜けません(笑)。「覚王山アパート」で、ガラスアクセサリー工房兼ショップをやっていました。5年でお店を辞めて、次は何をしようか模索中です。去年は「アマノマイ」という舞(巫女舞)にも出会って、舞をやったり、三線(さんしん)で歌ったり、心のままに色々と楽しんでいます。

―おぉ~!幅広い分野でご活躍されているんですね。「覚王山アパート」とは?
本当に2階建てのアパートなんですけど、主にアーティストやクリエイター達の手づくり作品を売るお店やアトリエ、古本カフェ等が集まっている建物ですね。いろいろな作家さんが、作品を作りながら販売しています。
―素敵ですね!
そうなんです。ガラス作家の活動をしていて、お店をやるのがずっと夢だったんですけど、名古屋に来て2ヶ月ぐらい経った頃に、「覚王山アパート2階が空いてるよ」という噂を聞きつけて!早速企画書を提出して、OKをもらってオープンしました。
―2ヶ月で!まさにご縁ですね~。
実は、名古屋に来た翌年の3月に結婚式を挙げて、その翌月の4月にお店がオープンだったので、その頃は人生史上最大に忙しくて、訳が分かりませんでした(笑)。お店も手作りで、自分で壁を塗ったりして。今思うと「よくやったな」と思います。
―お店もDIYされたんですね!どういったガラス作品なんですか?
バーナーワークと言って、ちっちゃいガラス玉を卓上のバーナーの上で焼いて作るんですけど、ネックレスとかブレスレットとかイヤリングとかのアクセサリーが多いです。そういう作品を、「ぐるぐるマーケット」という支援にも提供させてもらっていました。他の作家さんにも声をかけて作品を提供してもらって、その売り上げを全部、若者たちの為の団体である「(一般社団法人)aichikara」のキャンプ等で使ってもらいました。



―当時「aichikara」で働いていたので、友美さんとの出会いもそこでしたね。ぐるぐるマーケットは大人気でしたよね。作家さんが、正規で販売するのはどうかなっていうものを中心に出していただいていたんですけど…。(なる美)
でもそれは作家さんの単なるこだわりで、私達からしたら、もう普通に“お宝”だったよね!皆さん無償でくださって、その売り上げも全部渡せたので、結構な金額になりましたよね。
―そう!凄かったですよね。(なる美)
皆様の愛のおかげでね。
―「ぐるぐるマーケット」は色々な場所でやっていたんですか?
いえ、「覚王山アパート」の1階の「sobo」っていうギャラリーを借りてやっていました。
―「喫茶ぱんとまいむ」をお借りしたこともありましたね。(なる美)
そうだね!
―友美さんは、今もガラス作家をしているのですか?
ガラス作家はもうやめています。お店を辞めて少し経ってから更年期になって、かなり体調を崩してしまって…。その時に診てもらった先生に、「肝臓がすごく弱ってるね」と言われてね。ガラス作りが原因だと言われたんです。
―ガラス制作と肝臓って、関係があるんですか?
私、目が弱いみたいで、火を見ることで、目の疲労が肝臓に溜まって、肝臓が弱くなっていたみたいです。病気レベルではないんだけど。
―目の疲労が肝臓に?!
すごく信頼できる先生だったので、ガラスは辞めることにしました。ついでにその人に、「小麦粉もやめた方がいいよ」って言われて、小麦粉もやめたら、体調がすごく良くなった!ちょっとびっくりしてます。
―グルテンフリーですね!小麦粉って人によってはそれほど影響力があるんですね。ガラス作家としての活動は、大阪にいた時からされていたんですか?
はい。でも、不思議なんですけど、大阪でもお店をやりたいなと思って、物件を探していたんだけど、なぜか途中でポシャっちゃったりして、お店を出すまで繋がらなくて結構へこんでたんですよね。「なんで繋がれへんねんやろう」ってね…。
―やりたい気持ちはずっとあったんですね。
でもそれが、名古屋に来ていきなり2ヶ月目にご縁があって。「ここやったんや!」と思って。
―不思議ですね~!運命感じちゃう。ご縁が繋がる時は本当にとんとん拍子なんですね。
虐待の過去、精神世界とメンタルトレーニング
―大阪に40年ということですが、幼少期はどんなお子さんだったんですか?
今はめっちゃべらべらしゃべってますけど、幼少期は全然喋らなくて、どこにいるのかも分からないような子やったんです。自分のことも大嫌いだし、「どうせ私なんか根暗で…」って思っていて…。

―え!今の明るい友美さんからは想像できないですね!
でも、それも理由があって。子どもの頃、父親から虐待を受けてたんです。
―虐待ですか…そうだったんですね。
虐待を受ける子どもって大体みんなそうだと思うんですけど、「自分は親に嫌われてるから殴られたりするんや」って思っちゃうんですね。親って自分の世界の中で一番大好きな人だから、その“親”に嫌われるっていうことは、子どもにとっては「もう人生終わった」ぐらいの感じなんです。
―子どもの頃って世界が狭いですもんね。親に嫌われるなんて、想像もしたくないです。
そう。だからもう何やっても楽しくないし、生きてても辛いし、ずーっとそういう生活を送っていて。だから、24時間自己否定していたし、人を見ては嫉妬するような毎日でした。
―聞くだけで辛いですね…。
全然楽しくない人生やったんですけど、でも1個だけ楽しいことがあって、音楽がもうめちゃくちゃ大好きで。自分でもバンドをしていたし、ライブを観に行くのも大好きでした。毎週のようにライブに行ったりして、そこだけが私が“生きてる”ことを実感できる場所でした。それ以外はもう、生きてるのか死んでるのか分からんような生活をしていたので。
―音楽が助けてくれていたんですね。お母様は、虐待をご存じだったんですか?
それはもちろん知っていました。でもお父さんが怖いから、何も言えなかったよね。「お母さん助けて、なんで助けてくれへんの?」って当時は思ってたけど、今思えば「まあ無理やな」と思います。
―お母様も辛かったでしょうね…。ご兄弟は?
います。私が一番上で、弟と妹がいるんですけど、多分一番殴られてたのは私だと思います。でも、大人になって改めて考えてみると、自分にも原因があったかなと思う節もあるんですけどね。
―友美さんに原因が…?
私は結構互角に戦おうとしていて、父が怒るスイッチを知ってたんですよね。だから、やられてんねんけど、どっかで父を馬鹿にしてる自分もいて、なんていうか、怒らせてちょっと楽しんでる、みたいな自分もいたんですね。
―負けたくなくて、仕返ししたい気持ちでしょうか?
そうかも。でも傷付いてるのは自分やねんけどね。ホンマに自分を大事にしていなかったな。だから当時の写真って、病気がちだったっていうのもあるんですけど、どれを見ても顔が暗いです。
―失礼なことかもしれませんが、それは、“躾(しつけ)”ではなくて、“虐待”だったんですか?
それがね、大人になってからお父さんとバトルしたことがあって、私が「お父さん、私のこと嫌いやってんやろ!殴ったり叩いたりして!」って罵倒した時に、「あれは躾や!」と言ってました。それでまた、私キレて…。
―お父様は“躾”のつもりだったけど、友美さんとしては、“虐待”だった?
いや、あれは冷静に見ても完全なる立派な“虐待”でしたね。
―完全に言い切れるというのは、私たちの想像を絶するものなんでしょうね…。
「なんで自分だけがこんな目に合うんやろ、世界って不幸だ」ってずっと思ってて。そうやって大人になったから、それがどうしてもずっと抜けなくて、引きこもったりもしちゃって長い間悩んでいました。
―虐待のトラウマが、ずっと残っていたんですね。
でもその虐待のおかげで、精神世界のこととかメンタル的なことに興味を持ちだしたんですよね。ある時、友達がメンタルトレーニングに通いだしたら、どんどん変わっていったんです。最初はすごい怪しい団体だと思ったけど(笑)、私もずっと変わりたいと思ってたから、変わりたい一心でそこに飛び込んでみたら、天国みたいな場所でした。それが33歳ぐらいだったと思うんですけど、自分が求めていた世界だったんです。
―メンタルトレーニングに行ったんですね。
私、人のことは全然信用してなかったし、みんな偽善者やと思っててね。「本当のことなんか誰も言ってない」って思ってた。そうじゃないんやけど、そう思って生きてきたんです。
―根深い心の闇ですね…。
でもそこでは、みんな本当のことを言ってるの。驚くぐらい本音で言い合っていて。そういう風にしようっていう場所だったんです。今で言うと、自己啓発みたいな感じなんやけど、その頃はそういう場所はあまりなかったから、親とかも最初は心配してたんやけど、そこのおかげで今の私があるんです。
―具体的にはどういったトレーニングをするんですか?
「思ったことを言っていいよ」って言われるんですけど、最初はあまりにも何も言わなさすぎて、自分が何を思ってるのかもわからなかったんですけど。一番最初に言えた言葉を今でも覚えてて。ある子が主催者の人と喋ってて、12時も回って、13時も回ってもずっと喋り続けてるから、「めっちゃお腹空いてきた」と思ってきたんです(笑)。
―それはお腹空きますね(笑)。
で、パって指されて、「今、ともちゃんは何を思っているの?」って聞かれた時に、嘘はつけないから、「めっちゃお腹空いてきたから、はよ終わってーや」って言ったんです。そしたら、「ほんまやな、じゃあ終わろうか。」ってなって。すんなり自分の意見が認められた時に、「あ、思ったこと言っていいんや!」って、思いましたね。
―最初は「お腹空いた」を言うところからだったんですね…!自分の思ったことを素直に言えずに生きてきた人にとっては、確かに訓練が必要ですね。
そういう訓練を続けて、徐々に自分の思っていることに気付き、主張できるようになっていきました。
―安心して発言できる場所って、大事ですね。
悪魔だと思っていた父の大きな愛
―少し戻りますが、虐待を認識したのはいつ頃でしょうか?
そのメントレ(メンタルトレーニング)に通っている時に、初めて自分が虐待されていたことにも気付きましたね。というか、気付いてたんやけど、まさか“自分が虐待を受けてる”なんて思いたくないから、“ない”ものにしてたんやけど、そこではっきり言われたのね。「ともちゃん虐待受けてたんやね。」って。
―改めて言葉にされると、ショックですよね。
それを言われた時に、「ガーン」って、すごい衝撃でしたね。分かってはいたけど、人から言われたらすごいショックで。「あぁ、やっぱりそうだったんや…」と思って。
―自分の中で“ない”ものにしていたけど、向き合わされた瞬間ですね。
その瞬間から色んなことを教えてもらったな。ちょっとスピリチュアルやけど、子どもは親を選んで産まれてきていること、とかね。でもそれを言われた時は、「虐待する親なんて、選ぶわけないやん」と思ってたんだけど。100歩譲って「私が選んだんや」と思えた時に、なんでか考えてたら、最初は自分でも意味がわからなかったんやけど、「私、あの人を助けたかったんや」っていう思いが湧いてきたのね。
―え、お父さんを助けたかった…?
実は、私が生まれてすぐに、祖父が、悲しいかな、自分で命を絶っちゃったんですね。で、そのすぐ後に祖母も余命宣告を受けて、父は50代にして、1年のうちにパタパタって両親を失ってしまったんですね。
―お辛いですね…。
父の気持ちを思うと、荒れても仕方ないような気がして。寂しすぎて。その当たり所が私と母やって…。でも、さっきの教えからすると、そういう状況になると分かっていて、この父親を“選んだ”んですよね、私は。
―その意味を必死で考えますよね。
で、思い返せば、そういう父の、どうしようも出来ない、怒りとか悲しみとかの思いに対して「全部私に出していいよ」って思ったのも、すごく自覚があって。だからやっぱり、私は父の怒りを引き出すんですよね。
―無意識だけど“お父様を助けたい”という思いがあって、怒りを引き出していたんだと、整理できたんですね。
それが分かった時に、「あぁ、そうやったんや」と腑に落ちました。でも、傷ついてるから、やっぱりその傷はなくならへんねんけど、「60%くらいは父親のことを許せたかな」と思っています。
―許せるのですね…。お父さんの様々な葛藤を想像しつつ、自分の感情とも向き合ったんですね。すごい向き合い方です…!友美さんが考える、“躾”と“虐待”の違いってなんだと思いますか?
多分ね、その子にもよると思うんですよね。
―受け取り方ですか?
気にしない子もいるかもしれへんし、異常に傷つく子もいるかもしれないし。曖昧な場合もあるよね。うちの親みたいに完全に虐待だと分かりやすいけどね。言葉もだけど、手も出るし、もうみんながビビってたから。その上、やっぱり寂しいから、お酒に逃げちゃって酒乱でもあったので。
―そう考えると、感情をコントロールできずに罵声を浴びせたり、少しでも殴ったりして、子どもに心理的な傷を負わせたら、それは虐待と言えるのかもしれないですね。
だから父は本当に弱い人なんですよね、優しくて…。大人になって段々それが分かってきてね。今、父が母の介護をしているんですが、めちゃくちゃ優しくてね。
―えぇ…優しいんですね…。ちょっと不思議です。
これがこの人の本来の姿なんやな、お母ちゃん幸せだなと思って、すごい泣けてくるけど、本当に優しいの、「よくそこまでやるな」と思うぐらい。
―そんなに変わるんですね…!
そうですね。今は、仏さんかと思うぐらい優しいんです。鬼、悪魔と思ってた父親がこんなに変わるんやと思いましたね。
―虐待に気付いたのが、メンタルトレーニングを受け始めた33歳の時ということですが、それまでお父さんは変わらずでしたか?変化はあったのでしょうか?
変わらないですね。ずっと怖い父ちゃんのまんまやけど、でも、おじいちゃんが大変なことで亡くなったと知ったりして、やっぱり私の受け取り方が変わって、父もちょっとずつだけど変わっていたのかもしれないです。
―友美さんの受け取り方が変わると、自然と接し方も変わってくるということですよね。
父の愛を思い知った衝撃的な事があってね。昔はどっかで「お父さんにギャフンと言わせたい」という思いがずっとあって、一回やりきって、ギャフンと言わせたことがあったんです。
―やり切った?とは…??
お父さんが一番嫌がることは、“私が不幸になること”だと思っていたんで、自分を犠牲にして、幸せにならない選択をずっとずっとしてきたんですよね。自分の不幸を武器にしてお父さんを言い負かしていたり…。
―お父さんの嫌がることをしようと、自暴自棄みたいになってたんですね。
でも、最終的に仕事でも失敗して、すごい借金作っちゃったのね。その仕事は辞めたけど、借金は残るじゃないですか。もう返すのが大変やって…。お母さんがそれ見て「大丈夫なの?」って心配してくれて。「いや、大丈夫じゃないねん。」と言ってたら、「お母さん何にもできへんから、お父さんに相談してみたら?」と言われて。「いや、そんなん言ったら、シバかれるやん」と思ったけど、でも本当にもうどうしようもなかったから、勇気振り絞って相談したのね。
―わ…絶対シバかれる…。
金額も全部伝えて、人にも借りてたから、そのことも伝えて。ずっと下向いて喋ってて。パって顔を上げたら、お父さんは全然怒ってなくて。スッて黙って立って自分の事務所の机の引き出し開けて、通帳と印鑑持ってきて、「これで全部返してこい」って言われて。
―えー!雷が落ちたり、説教が始まったりしそうなのに!
その時目が覚めたの。「あぁ私、なんてことしたんやろう!」って。そういう意味でやり切ったのね。ギャフンと言わせたと思った後に「えらいことしてしまった。」と思って、その時生まれて初めて、父親に本気で「ホンマにアホなことしてごめんなさい。」と謝りました。本気で謝ったらお父さんめちゃくちゃ優しくて、「分かった、分かった。もういいから早く返してこい。」と言われて。
―お父さんの愛を感じますね…。
今までは、「ごめん!」みたいな、口ではごめんって言ってるけど、全然心から謝ってなかったんだよね。この時、本当に生まれて初めて謝れたのと、その時に私はお父さんの愛の大きさを目の当たりにしたんです。「私はこんな大きな愛にずっと包まれてたんやな」と。私は小物で、大きなお父さんに頭を抑えられて「わあー!」ってガムシャラに戦ってるような状態やったんやなと思って。ギャフンと言わせたつもりが、愛で返されました。

―とはいえ、虐待で受けた傷もあるわけですし、お父さんを恨み続ける選択もできたと思いますが、そう思える友美さんがすごいです。
いや、でもあんな愛見せられたら、多分誰でも恨み続けられないよー。その時にメントレ教えてもらってたことが、こっちが本気で伝えれば、向こうも本物を返してくれるって。本気で謝れば絶対に返ってくるって。
―鏡ですね。
謝って変なものが返ってきたら、それは自分が本気で謝れてないだけで。相手は本当に自分の鏡で。相手は悪くないっていうのを散々教えてもらっていました。それを目の当たりにして、自分で体験して、本当に全部自分が引き出すんやなっていうことを実感しました。
―「変なものが返ってきても相手は悪くない」っていうのは、すごく心に刺さりますね。
名古屋に来て父と離れてから、また1エピソードあって。こっちに来てから、「お父さんに謝りたいな」という思いが出てきてね。「私が虐待を受けたのに、なんで謝らなあかんのやろ」とも思っていたんですけど…。でも、お父さんが一番苦しくて助けて欲しい時に、私は「もうお前なんか嫌い」「お前なんか死んでまえ」ぐらいの、あかん思いをいっぱいぶつけていたから、「悪かったな…」と思ってね。
―それだけお父さんに傷つけられたから仕方ないとも思いますが…。友美さん、本当すごい。
でも、謝ろうと思っても、父親にそう簡単には謝れないじゃないですか。どんどん月日は経ち、いろんな人にサポートしてもらって、「謝ろう」って決心がついた時に、「覚王山アパート」の話が来たの。
―わ!そのタイミングだったんですね!!
多分ここで謝れへんかったら、この話またポシャると思って。「すごいの来たな。これ絶対頑張ろう」と思ったら、お母さんからちょうど電話がかかってきてね。それもサポートやと思うんですけど、「お父さんに頼んでたことあったよな」って、自然にお父さんに電話変わってくれたんです。
―本当にサポートだ!周りや環境が、謝るための舞台を用意してくれているかんじ。
話の最後に、「お父さん、ごめんちょっともう1個話あんねんけど…」って、勇気振り絞って、言いました。手も震えるし、もう泣きそうやし。
―緊張しますね…。
「お父さんが一番しんどかった時に、本当に嫌な思いをいっぱいぶつけて、もう本当にごめんなさい。」と心底謝りました。ほんなら、お父さんが「お互い様やったしな。」って言いはってん。その時は意味が分からへんかってんけど、「あ、この人、虐待認めたんや」と思って。
―“自分も悪かった”と思ってないと、お互い様とはならないですもんね。
そう。前は「躾や!」って返されたけど、自分がやったことを“悪かった”と思ってたんやなと思って。その瞬間に、“お父さん”っていう感覚ではなくて、この世に一緒に修行に来た“同士”になっちゃったの。
―同士ですか!“親と子”の関係から、対等な“人間同士”の関係になったんですね。
そこから、もうどんなイケてないあかんお父さんも、もう愛おしくてしょうがなくて、もう“父親”っていう感覚はどっかに飛んで行っちゃいましたね。
―愛おしくてしょうがないとは…!
そうですね。そこからホンマに父との関係が180度変わってしまって、今では大好きです。

―さらっと、すごいことをおっしゃってます!親子っていう関係ではなく、一人の人間として見ることもすごいですが、その一人の人間を丸ごと愛することができたんですね。
そうですね。やっぱり“お父さん”って思ってると、完璧を求めちゃうから。
―確かに。理想的なお父さん像があるから、お父さん“なのに”とか、お父さん“のくせに”っていう気持ちになっちゃいますよね。
そうそう(笑)。
―でも、そうやって思う方が、固定観念なしで見ることができますもんね。
そうですね。今では、本当に愛おしい存在です。私は子どもがいないので親の気持ちは分からへんねんけど、もちろん親が子どもを思う愛も大きいのでしょうけど、子どもが親を思う愛の方が何倍も大きいと、自分の体験から感じました。
―子どもは無条件に親を愛してくれますよね。そういえば、うちの子も毎日理由もなく「好き、好き」と言ってくれます(笑)。
子どもってすごいなって。親を守るために生まれてきたんだと思います。自分もそうだったしね。お父さんを守るために生まれてきたんで。
―わぁ。。。!子どもを守っているつもりが、実は守られているんですね。お父様自身が優しく変わった大きなきっかけは何かあったんですか?
母の病気かな。50歳ぐらいの時に母が胃がんになって、それまでは完全に亭主関白で上から押さえつける感じだったんだけど、そこから変わりましたね。私との関係はその時は変わらなかったけど、お父さんの優しさが放出され始めました。母が術後大変で、ちょっと鬱っぽくなって、「もうどこにも行きたくない」と言うので、献身的におにぎりを作って、2人で公園に遊びに行ったりしていました。
―そんなお父様とずっと一緒にいる選択をしたお母様にも、様々な葛藤があったのではないでしょうか?
そうですね。母も覚悟を決めた時があったようで。私が赤ちゃんだった時に、あまりにも虐待がひどくて、「殺される」と思って私を連れて家出したんですね。でも、父も大変な状況じゃないですか。親戚の方が家出先に来て、「多分あいつを放っておいたら死んでしまうかもしれないから、頼むから戻ってたってくれ」と言われたらしくて。そこで母も父のことを見捨てられないから、覚悟を決めて戻ったと聞きました。
― それは本当に、相当な覚悟だったでしょうね…。
えらい家族ですよ。なんでそんな大変なところに生まれてきたんだろうって思いますけどね(笑)。今では、修行だったんだなと思います。
―その家族を選んで、修行をしっかり果たしている友美さんが本当にすごいです。
果たしました…!(笑)