メタ認知で更なる高みへ
岡崎を愛する愉快なエンターテイナー
岡崎市を拠点に、主に俳優・ミュージシャンとして、エンタメ業界で幅広く活躍されている菅沼翔也(すがぬま しょうや)さん。名古屋大学医学部在学中のスカウトがきっかけで芸能の世界へ入り、「名古屋おもてなし武将隊」の活動を経て、映画や舞台、NHK大河ドラマ等に出演されています。自身の音楽アルバムにちなんだ企画や、盆踊りイベント等、その“ユニーク”な活動の原動力や思いを伺いました。
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パワースポット“岡崎”
―自己紹介をお願いします。
愛知県岡崎市生まれで、俳優・ミュージシャンの菅沼翔也です。よろしくお願いします!
―岡崎市生まれなんですね!
はい!今は名古屋で仕事をすることが多いんですけど、地元である岡崎を拠点としたローカル俳優なので、そこがポイントかなと思います(笑)。
―名古屋ではなく、岡崎というのがポイントなんですね。
‟結果、まだ岡崎にいる”という部分もありますが、岡崎がとにかく好きで、外に出ていきたいとは一度も思ったことがないですね。
―今日も岡崎の喫茶店「フレンズ」さんにご協力いただいてインタビューさせてもらっていますが、菅沼さんのお知り合いということですね。
そうですね。高校時代の後輩がここの常連で、5、6年前に「翔也くん、いいとこあるから行きましょう」って連れてきてもらって、それから通っています。
まさに今座っているあたりをステージにして、弾き語りライブをやらせてもらったこともあります。あと、『工場へ行こう』という番組の再現ドラマで、喫茶店のシーンを撮りたいとなった時に、「岡崎に良い喫茶店ありますよ」と言って紹介して、テレビのロケ地になったことも。その時は自分が常連客の役で出演しました(笑)公私共にお世話になっています。
―岡崎については、とてもお詳しいですよね。他にどんな魅力が?
言葉にするのはなかなか難しいんですが、名古屋から岡崎に帰ってきた時にいつも、「空が広いなー」って思います。大人になるまでそんなことは一度も思ったことがなかったんですけど、20代半ばを超えてから特に思うようになりました。名古屋から車で国道1号線を通って、刈谷、知立、安城、岡崎って帰ってくる時の空を見て、「ああ、いいなー」って思って、よく車を停めたりしています。
―そういう時間、いいですね!
夜帰ってきたら玄関に入る前に、立ち止まって空を見上げるルーティンがあるんですけど、岡崎の夜空を見ると「はぁ~1日終わった~」って、スーってなるんですよ。
―癒されるんですね。
他の岡崎の方に共感してもらえるかどうかは分からないですけど…。
―都会の窮屈さから解放される感覚でしょうか?
そうかもしれないですね。仕事で東京に行くこともありますが、新幹線で東京に近づくにつれて、家と家との間隔がどんどん狭くなってくるじゃないですか。あれを見て、「都会では暮らせないな」と思っちゃいますね。
―確かに、その気持ちはわかります…!
もうこの歳まで岡崎で生きてきちゃったから、今から東京とかに出ても多分枯れていっちゃう(笑)
―慣れた土地が一番ですね。
空気感が名古屋と比べてもやっぱり違うんですよね。人もね、尾張人と三河人でちょっと違う気がしていて。
―方言が違うからではなくて?
いや何だろうな、これ難しいな…。
―僕、なんとなく分かります。(岩田)
分かります?言語化していきたいんですけど、なかなかできない。三河の人に聞くと「分かる分かる」ってよく言われます。
―へえー!
肌感覚ですかね。血なのか、何か目に見えないものですね(笑)名古屋って聞くと、都会のイメージがあるから、「三河は田舎もんなんで」って自分たちを卑下しつつ、「尾張に負けてたまるか」という思いもある気がします。
―私も、土地って‟合う合わない”があると思います。旅をしてると、なぜか早起きしちゃったり、頭が冴えたりする土地があるんですよね。(なる美)
名古屋の朝も、岡崎の朝となんか違うんですよね~。言語化できないけど!(笑)
学祭でのスカウト、放射線技師と諦めきれなかった夢
―現在は、名古屋でお仕事をされることが多いのでしょうか?
名古屋が多いです。まれに東京に行ったりもします。
―一番力を入れている活動は?
俳優業としては、舞台ですね。あとは、ドラマや映画、CMなどの映像作品にも出演しています。
―舞台に出演するには、オーディションを受けるのですか?
オーディションも含め、色んなパターンがあります。舞台の場合は、これまでの繋がりでオファーをいただくことが増えてきました。
―菅沼さんの人脈がそのまま繋がるんですね。
最初の仕事は大学3年生の時だったんですけど、オードリーさんがMCを務めていた中京テレビの『サタメン』という番組に1年間出ていました。
―いきなりテレビ出演だったんですね!
これは何かのご縁だと思って、大学を卒業したタイミングで「名古屋おもてなし武将隊」のオーディションを受けて、豊臣秀吉役を務めました。自分で仕事を掴み取ってきたというよりかは、一つの仕事が終わって、それぞれの現場でお世話になった人からまた1つお仕事が派生していって、上手い具合に繋がってきたというか、根を張るように段々広がってきた感じですね。
―ご縁って本当に不思議ですね。
曲がりなりにも10年ちょっとやってきて、俳優としての根っこみたいなものはそれなりに広がってきているのかなと、振り返って思いましたね。満足しているわけではなくて、もっとやっていかないといけないし、「足りてないな」と思うことも多いけど…。
―俳優業以外にも、歌や写真展等とても幅広い活動をされていますよね。
履歴を見たらね、色々やっていますよね。
―経歴を拝見すると、名古屋大学の医学部保健学科ご出身とのことですが、なぜそちらの学部へ?
えーっとね、消去法…?(笑)
―消去法で名大医学部ですか!(笑)
と言ったら、ちょっと角が立ちますけど…(笑)元々小学生の時から俳優になりたくて、卒業文集も『目指すは俳優』というタイトルで書いていたんです。「歌手か俳優かで迷っていたら、隣の席の佐藤くんに『お前は歌があんまりだから俳優のがいいぞ』って言われて、自分は俳優を志すことにした」みたいな書き出しで始まっていて。
―小さい頃からの夢だったんですね!
でも、かと言って、中学・高校で何か具体的に行動できたかと言ったら全くできていなくて…。大学進学を控えた時に、「東京とか名古屋芸大とか、パフォーマンスを学べるところに行こうかな」と、少し考えたんですけど、当時の菅沼少年はそんな勇気も、自信もなくて…。
―周りは普通に大学行って、という雰囲気ですしね。
そうなんですよ。名古屋だったら違うかもしれないですけど、自分の周りに芸能をやってる人が1人もいなかった。だから、自分とは全然違う世界の話みたいに感じていて。
―芸能の世界って、遠い世界に感じます。
僕は3人兄弟の三男坊で、兄が2人いるんですね。一番上の兄が私立の大学に通っていて、真ん中の兄は名古屋大学だったんです。現実問題、お金のことを考えると自分も国公立だなと思ったし、兄貴も名大にいて「楽しいぞ」という話も聞いていて。兄とは高校も同じだったんですけど、兄に負けたくなかったこともあって、「名大行こう」って決めました。
―本当に行けちゃうのがすごいです!なぜ、医学部に?
理系だったんですけど、機械や科学が特別好きなわけでもなかったし、漠然と“世のため人のため”になることがしたいという思いはあって。じゃあ医学部か…でも医者になる頭はない。で、当時バスケ部で、怪我をした時にレントゲンを撮ってもらったこともあって、放射線技師になれる専攻を選びました。
―では当時、放射線技師として働くことも想像されていたんですね。
正直なところ、あまり想像できていませんでした。というのも、大学に入学してすぐの授業で、技師出身の教授に「君たちは1年休学して勉強し直して、地方の国立大学の医学部医学科に行った方がいい」って言われたんです。
―教授もなかなかですね…!その学科を志望して入学してきたのに…!
「めっちゃ嫌なこと言うやん!」って、当時は思っていたんですけど…。要は、医学の世界はピラミッドで、一番上にドクターが君臨していて、その構造からは逃れられないということを言いたかったんだと思います。もう少し言葉は選んでほしかったですけど、その教授が伝えたかったことはなんとなく分かります。
―良かれと思ってアドバイスをくれていたんですね。
生きていると、「あの時こっちの選択をしていたらどうなっていただろう」と思う瞬間、多分皆さんにもあると思うんですけど、これも一つの分岐点でしたね。もし医学科に行っていたら医者になっていたのかな…とか。でも実際はそのまま名大に通って、その大学祭で後のマネージャーになる方に声をかけられてこの道に進みました。
―大学祭でスカウトされたんですね!
当時名大では、野依教授をはじめとして何名かノーベル賞を受賞していた話題性もあって、東海テレビで名大理系のメンズ特集みたいな企画があったんです。トーク番組の『グータンヌーボ』的なものを名大の学生でやるという企画に、声をかけられました。それまで一切芸事はやっていなかったんです。
―それが一番最初のテレビ出演だったんですね。
ずっとそういうことがやりたい子だったから、「神の思し召しだ!」と思いました(笑)その後、『サタメン』のオーディションの話をもらって、「受けたいです!」って言って。奇跡的に合格して、そのまま大学在学中に今の事務所に所属しました。
―最初は学業と両立されていたんですね!
大学を卒業するタイミングで番組も終わり、どうしようかと考えて、何も決まっていなかったので悩みましたが、「演技を一から学ぼう」と思って、名古屋の「劇座」という老舗の劇団の養成プログラムに入塾しました。でも、1週間くらい経ったときに「名古屋おもてなし武将隊」のオーディションに受かったので、劇団には菓子折りを持って「すみません、行けなくなりました」と謝って、武将隊としての活動がはじまりました。
―卒業のタイミングで芸能の道に進んだんですね。放射線技師の免許は?
国家資格を持っています。技師としてアルバイトをすることもありました。放射線を扱える俳優はなかなかいないと思います。
―そうですよね、分野が違いすぎて!
少し前に『ラジエーションハウス』という放射線技師が主人公のドラマがあったんですけど、めちゃくちゃ出たかったです。「白衣持参で行くのに~!」と思いながら(笑)
―My白衣!?(笑)
My白衣!
菅沼家の三男坊
―ご両親は今の活躍をどう感じているのでしょうか?
その時々で色々変わってると思うんですけど、武将隊をやっている時は、かなり応援してくれました。武将隊って名古屋市がついてるから、親としても安心できたみたいで…。武将隊を卒業したら芸能活動は辞めると思ってたらしく、俳優を続けると言ったときはだいぶ心配していましたね。
―反対ではなく、心配だったんですね。
「でも、あんたはそういうこと言い出すとは思ってた」みたいな感じもありましたね。
―その気配は感じていたということですね。
20代はずっとそんな感じで、30代になって初めてNHKの出演が決まって。そこらへんから親の見方も変わった気がします。
―NHKの威力!
父は定年してだいぶ経つんですが、これまでの人生や残りの人生を考えているからか、「やりたいことは、やっておいた方がいい」と言って、応援してくれています。
―嬉しいですね。
でもやっぱり、心配は心配なんだと思います。親になったことがないから、子を思う親の気持ちは想像するしかないんだけど、たぶんどの仕事を選んでいたとしても同じなんじゃないかな。
―きっと、いくつになっても親は心配してくれるんでしょうね。
今、兄2人はもう岡崎を離れていて、一番近いところにいるのが自分なんです。家のこと、村のこと…岡崎も時々、村社会みたいなとこがあるから(笑)、ご近所付き合い、しきたり、菅沼家のことなどは、多分自分が一番知ってるし。そういう点では、岡崎に居ながらこの仕事をしていて、良かった点かもしれないですね。
―家族や地域のことも担っているんですね。菅沼さんの活躍を舞台や映像で見ることができるのも、親孝行の1つかもしれないですね!